東京10年
東京に来てから、まる10年になりました。
本日、東京を離れます。
これまで、東京に来れるチャンスは3度ありました。
最初は大学受験の時。この時は東京の大学にも受かっていたし、高校の先生とかは東京の大学に行った方がよいと言っていました。ただ、まだ喘息がひどくて、東京で一人暮らしをして生命を維持できる自信がなかったのであまり選択肢にはありませんでした。
2度目は修士を出て就職する時。いくつかメーカーの見学に行ってリクルーターの人とも会っていたのですが、単に自由で楽しそうだという理由で地元のベンチャーにサクッと入りました。
3度目は博士を取って就職する時。この時は研究職でやっていく気満々だったので、北大でポスドクをやりながら東京の大学を中心に就職先を探すという方針にしていて、 偶然にも東大の助教のポストを得ることができたので、初めて東京で暮らし始めました。
東京には本当にないものはないという感じで、刺激的な暮らしでした。
ちょっと出かければ、音楽、美術、食事、なんでも世界最高峰のものを体験することができる環境は世界中ここだけでしょう。
ここで出会った人たち、コミュニティは一生の宝物です。
三度目の正直で来てよかったです。
サヨナラ東京
ありがとう東京
神輿担ぎに来るかも。。。
写真は北澤八幡秋まつり実行委員会 Facebookより借用。
車を買ったこと
始めて車を所有したのは、2000年に初めて就職する直前くらいだったと思う。先輩の奥さん(まだ結婚してなかったかも)の友人から20万円で買ったホンダのインテグラだった。
このインテグラ、FFで車高も低く、とにかく雪に埋まりまくった。でも、エンジンのパワーは素晴らしく、乗っていて楽しい車だった。あまりにもエンジン音がすごいので感心していたら、ある日、マフラーがぼとりと取れた。単にマフラーに穴が空いていてうるさかっただけらしい。
この車は、10万キロを超えたあたりで当時アパートの下の階に住んでいた怪しいおやじに1万円で売った。廃品回収の会社をやっているらしかったのでおそらく廃車にしただろう。最後の方は窓とかも外れそうであちこちボロボロだったしね。冬の山の中で道だかわからないところに入り込んで崖みたいなところを滑り落ちたりしてたし。
次の車は親から譲り受けたトヨタのカリーナだった。インテグラに比べると面白くもなんともない車だったが、4WDはやはり素晴らしく雪に埋まることはほぼなかった。たぶん1年くらい乗っただけで、東京に行くことが決まったから手放した。あまりにドタバタしていたため、どのように処分したのか記憶がない。
先日、ついに10年ぶりに車を入手した。なぜ車が必要になったのかは後日書くことにする。
以前の体験から、車なんて10年も乗ればどうせボロボロになるのでそんなにお金をかけない(今までの総額が20万円!とはいえ、当時よりは全然お金を持っているのでそれなりにかけるけど)。車なんて基本的に走ればいいと思っているのだけど、やはり毎日乗ることになると乗っててある程度楽しくなければ辛い。トヨタ車はつまらないので出来ればホンダ車(あるディーラーさんがトヨタ車はエンジンが糞、と言っていた)。で、毎日雪かきばかりしていた悪夢を思い出すので、絶対四駆という感じで選んでいくと、フィットに落ち着いた。
ディーラーさんから買うのがこんなに楽だと思わなかった。全部やってもらえる。今までは名義変更など全部自分でやっていたからね。。。
これまではセダンばかり運転したのでこのタイプの車はなかなか慣れるまでに時間がかかりそうだ。今困惑しているのが、後ろの窓が狭くてあまり視界がよくないのと、車の先端が見えないという2点。運転するのが10年ぶりということもあってとても緊張している。
追記:
後ろの窓が狭くてあまり視界がよくないのは後付けのミラーを換装することである程度解決。窓が狭いのもあるのだけどミラーが小さいのがストレスだったのだね。
稀勢の里引退
横綱になるのが早すぎたとか、いろいろ言う人がいるけど、あの時の稀勢の里は間違いなく一番強かった。年間通しても一番強かったし、優勝もした。あの初優勝は美しかった。
あの怪我の後も優勝をした。あれは止めることは難しかったのかもしれない。でも、その後の場所は全休するべきだった。3場所くらい全休してもよかった。もはや結果論だけど、相撲を長く見ていた人は、結構そう思ったのではなかろうか。
今場所は、2日目逸ノ城に負けた後、心が折れる音が聞こえた気がした。ああ、これは引退するな、と思ったが、3日目も出場してきた。栃煌山戦はもはや醜態だった。あんな姿は見たくなかった。
こんなに長い間、これほど多くの人の期待と声援を一身に受け続ける、その重圧はものすごいものだっただろう。これほどの重圧を背負い続けた力士は歴史上ほとんどいないと思う。本当にお疲れさまでした。そしてありがとう。
稀勢の里は、離れても組んでも勝てる素質のある力士だった。先代の師匠である元横綱隆の里は基本は突き押し速攻でダメだった時にはおっつけたりして勝つのがいい、と言っていた。兄弟子であった西岩親方(元関脇若の里)も、一番の良さは左四つじゃなくて突き押しだと全く同じことを言っていたが、本人にはそのあたりの想いが届いていなかったようだ。この記事を改めて見ると、稀勢の里が怪我から復帰できなかった様々な要因が何となく透けて見えてくる。